国際人権大学院大学(夜間)の実現をめざす大阪府民会議
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1.プロローグ
2.成人教育の歴史的背景
3.権利としての成人教育
4.成人教育と大学
5.成人教育における人権教育
6.人権教育における課題

【3.権利としての成人教育】

記念講演のようす  成人教育は権利です。日本で権利としての教育というと義務教育というものが意識されてきていていますし、高校までは事実上、準義務教育になっているとは言われていますけれども、どれだけほんとに権利としての位置づけが明確であるかということについては、まだ決して十分ではないと思います。
  ご存じのように国際人権規約をはじめとして、国際的な動きからすれば、義務教育はもとより、できれば高等教育も無償というのが望ましい。少なくともそちらの方へ向かっての努力ということが求められていますが、それは別の言い方をすれば、すべての人にとってそういった高等教育も考えられていかなければならないという時代に入っているということです。これは学歴が必要だとかそういう意味合いでというよりも、やはり今日的な社会の発達、というよりも複雑化といった方がいいんでしょうけれども、あるいは技術革新というなかでは、学び直しが生涯通じて必要ですから、いくら大学を出た人間であろうと学び続けなければ自分の技術が廃れてしまう、あるいは社会の理解が不十分になりかねない。そういうなかでは、生涯を通じての教育を権利として保障しなければならないという考え方があるかと思います。
  成人教育は権利なのだという主張は国際的にも行われていて、「学習権宣言」が出ましたのが、1985年にパリで行われました第4回ユネスコ国際成人教育会議の時です。ユネスコは第二次世界大戦後、ほぼ12年に1回、成人教育会議を開いてきています。ちなみに第1回はデンマークのエルノシア、第2回がカナダのモントリオール、そして第3回は実は東京で行われています。そしてそれについでの第4回がパリで行われまして、そこで「学習権宣言」が出されました。
教育を受ける権利というのは日本国憲法にもありますが、教育を受ける権利というと、義務教育をはじめとして学校で学ぶというイメージが強い。憲法解釈としましては、日本国憲法ができたときから教育を受ける権利の中には社会教育も含むのだと主張された憲法学者は少なくないのですが。しかし、どうしても人々のイメージでは必ずしもそうなりきってない。先ほど申しましたように、まさに社会に出てからも含めて絶えず社会の変動の中で、あるいは技術の革新の中で学び続けるということがないと、大げさな言い方をすれば、まさに人間としての生存そのものが全うできないといえると思います。
そういうこともありまして、成人も含めて学ぶということを保障しなければならない。そうなれば学習権といった方がいいだろうということです。学ぶ権利といった方が、学校に限らないで、もちろん学校も含めて学ぶことを保障していくということで、成人教育なんかにとってみれば大変使いやすい概念ですが、そういう学習権について保障していくことを求めた宣言が出たわけです。
  その中でいくつかキーになるような言葉もあります。成り行き任せに生きるのではなくて、歴史を創る主体になるのだというような表現もあります。私たちが社会の歴史を創っていく、そのためには学びが必要なのだということです。もちろん生存そのものが学びを必要としているということを前提にしています。よく言われますが、病気になってから医者にかかるとずいぶん費用がかかる。公費にしても医療費がずいぶんかかります。ところが、予防のための知識とか技術を各人が持てば、そのために投ずる費用は教育の費用ということになりますが、医療に比べればずっと安い。安ければいいという意味ではないのですが、やはり私たちにとって大事なのは、自分の健康を守るいろんな知識、技術を身につけておくということであり、そうすれば、病気になって医療費に苦しむというようなことは少なくてすむわけです。
  日本は公的な教育費は、国の経済力に比べると極めて少ないということでも有名ですけれども、このことが今出生率の低下ということにもつながっておりまして、なぜ子供を産むことをためらうか、多くの子どもを産むことができないかということに対する女性の回答で一番多いのは、教育費、養育費がかかるからということです。そういうことを考えましても、教育に多くの金を投ずるということなれば、もっとみんなが健康を維持し、かつ幸せに、あるいは子どもを産みたい人は安心して産み育てることができるということになるんだろうと思いますが、現状は必ずしもそうではない。その中で、この学習権の保障ということが大きく出されています。ただ、残念なことに日本で必ずしもこれが十分普及しているとはいえない面があります。まだまだご存じない方も非常に多いということがあります。
  ただ、学習権という言い方は先ほど申し上げた画期的な意味を持っているものの、学習権だけでいいということでは決してありません。ユネスコには有名な生涯教育を提唱したフランスのラングランという人がいましたけれど、このラングランの後を承けて1970年代から80年代、さらに90年代にかけてユネスコの生涯教育の責任者として活躍したイタリア人のジェルピという人がいます。残念ながらつい先年亡くなりましたけれども、日本にも4回ほど来訪し、この大阪でも講演をいたしました。あのジェルピがよく言っていましたのは、学習権は非常に大事だが、それをどのように保障するかということが大事だ。そうしたときに、教育を重視しなければならず、誰が教育を担うかということもきちんと考える必要があるということをよく言っていました。
  ですから、学習権はright to learnということになりますが、最近いろいろな文書を見ますとright to education、教育に関わる権利という言葉もよく使われるようになっております。つまり、学ぶことを保障しようと思えばその教育に関わる権利、これをみんなが持つことが必要ではないかということですね。与えられたものを学べばいいということではない。
  いつぞや中央官庁の方が来て講演をしていまして、生涯学習について説明していたのですが、「皆さんがたくさんのメニューの中からこれがいいと選んでやるのが生涯学習です」という話をされていました。ちょっと私が違うかなと思ったのは、そのメニューを作るというところにいろんな人たちが関わっていくということが、まさにこの教育に関わる権利ということであって、与えられたものを単にどれか選択して学ぶということではないだろうということです。もちろん定食でずっと同じものを与えられっぱなしというよりは自由があるわけでしょうけれども、メニューを誰が作るかです。
  以前、あなた食べる人、私作る人、といったコマーシャルがあって、男女共同参画と矛盾する性別役割分業ということで問題になったことがありました。性別役割分業でなくても作り手と受け手が分かれているということはあり得るとは思うんですが、その状況を越えていくというところが本来的なゴールではないか、つまり、学ぶ人が今度は作る側にも回る。もっと言えば、自分自身の学びも自分自身でコントロールしていく。そういう意味での教育に関する権利ということを考えなければならないという時代に入っておりまして、これは子どもの権利条約等においても出てくるところであります。ジェルピの言葉を使えば、すべての人のための教育ということはもちろん大事だけれども、「すべての人による教育」(education by all)、ということをもっともっと考えなければならない。それが彼の主張だったわけでございまして、それはそうだなというように思わせるところがございました。
  ユネスコでは、第5回の国際成人教育会議をドイツのハンブルクで1997年に行いました。これも前回から12年経っています。私も訪ねたことがありますが、ハンブルグにはユネスコの成人教育の研究所がありまして、そういうこともあってだろうと思うのですが、ハンブルクで開かれたわけです。そのときに出された言葉として「成人教育は21世紀の鍵」という言葉がございます。成人教育というものは、21世紀を開いていく鍵の役割をするんだということでして、成人教育会議だから成人教育をクローズアップするのは当たり前だろうということになりますけれども、その中ではアクティブな市民、もっと言えば政治、経済、社会を動かす市民を育てていく、あるいは先ほど申しました男女共同参画を進めていく担い手を育てていく上において、やはり成人教育は欠かせないという以上にキーなのだというような表現が出てきています。
  いずれにしましても、成人教育は人間らしい生存のために欠かせないものであり、権利として保障されなければならないという主張が出てきていて、そういう意味におきましても、人権大学院大学のようなものがあれば、今度は教育についても人権の観点から、さらに押さえ直していくということがより発展するであろうということがありますし、また、成人教育を通じての人権教育の充実ということが期待されます。

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